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松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

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25240715 伊藤氏貴著「生きるために読む 死の名言――小沢治三郎―」について - 岡田 次昭
2024/05/08 (Wed) 08:27:04
私の書架には伊藤氏貴著「生きるために読む 死の名言」があります。
この書物は、2023年4月18日、ダイヤモンド社から第一刷が発行されました。
238頁の中に、司馬遼太郎・佐野洋子・林子平・梅原龍三郎・坂口安吾・平塚らいてう・吉田松陰・高杉晋作・中村哲・瀬戸内寂聴・手塚治虫・白洲次郎・白洲正子・吉田兼好・大伴家持・吉川英治・藤村操・池波正太郎・岡本太郎・岡倉天心・三木清・井上靖・西行・小沢治三郎・新渡戸稲造・上杉謙信など有名人の名言が99も収められています。
今回は、そのうち、「小沢治三郎」について纏めることにしました。
彼は、海軍の中でも人格者で、将校達に慕われていました。

伊藤氏貴の来歴と受賞歴は、次の通りです。

聖徳学園小学校卒業
麻布中学校・高等学校卒業
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業
日本大学大学院芸術学研究科修士課程修了
1998年「告白の文学性、あるいは文学の告白性 -近代日本文学を中心に」で博士(芸術学)(日本大学)2008年
明治大学専任講師
2012年 准教授
2002年 第45回群像新人文学賞(2002年)評論部門:「他者の在処」

彼は、明治大学文学部文芸メディア専攻教授に就任しています。
そして、日本近代文学会、江古田文学会会員になっています。

上記以外の主な著書は次の通りです。

『告白の文学:森鷗外から三島由紀夫まで』(鳥影社 2002年)
『奇跡の教室:エチ先生と『銀の匙』の子どもたち:伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀』(小学館 2010年)
『奇跡を起こすスローリーディング』(日本文芸社 2011年)
『Like a KIRIGIRISU 〝保障のない人生”を安心して生きる方法」(KADOKAWA 2013年)『漱石と猫の気ままな幸福論』PHP文庫 2016
『美の日本 「もののあはれ」から「かわいい」まで』(明治大学リバティブックス)明治大学出版会、2018.3
『同性愛文学の系譜 日本近現代文学におけるLGBT以前/以後』勉誠出版 2020




「小沢治三郎(1886~1966 没年80歳)

みんな死んでいく、これでは誰が戦争のあと後始末をするんだ。キミ、死んじゃいけないよ。

※ 戦争の後始末を引き受けた海軍エリートのことば

帝国海軍最後の連合艦隊司令長官にして名提督と言われた小沢治三郎は、山本七平が『空気の研究』を書く一つのキきっかけを作った人です。
1945年、もはや日本にはアメリカと満足に戦える航空機はなく、その中で超弩級戦艦大和の出撃が命じられます。
護衛もない大和は、大方の予想通りあえなく撃沈されました。
なぜそのように無謀で非合理的戦争継続が承認されたのか、というのは、日本の意思決定の問題として残されました。
山本は、決定に関わった小沢が後に語った「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う」という言葉に注目しました。
意思決定権は海軍中枢のエリートのどの個人にもなく、「空気」にあったのだ、と。
この不気味な「空気」は未だに日本を覆っているのではないでしょうか。
さて、小沢は自ら囮となって死を覚悟したレイテ海戦を生き延びたあと、もはや名名ばかりとなった連合艦隊の司令長官に就任します。
通例、長官の位は大将でしたが、大勢の部下を殺したとして昇進を固辞。
二ヶ月あまりで敗戦を迎えます。
将兵たちに名言のように語り、自決をしようとする者たちを押さえました。
最後は「空気」に含まれることなく、周りを救ったと言えます。
戦後は沈黙と清貧を貫きました。
(了)

(ご参考)

小沢治三郎は、1886年10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24にて生まれました。
彼は海軍兵学校37期生でした。
最終階級は海軍中将で第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めました。
終戦後、彼は「君たちは腹を切ってはいけない。俺も自決しない」と明言し「俺は第一線で全力を尽くして戦ったが、戦争は不幸にして負けた。俺にはその責任はあるが、戦争を始めた責任は俺にはない」と語りました。
1966年11月9日、多発性硬化症のため彼は亡くなりました。
享年80歳でした。

写真

小沢治三郎が将兵に授与した短刀
25240363 アドルフ・ヒトラー著「我が闘争(Mein Kampf)」について - 岡田 次昭
2024/05/07 (Tue) 07:52:36
令和6年5月5日(日)、私は、アドルフ・ヒトラー著「我が闘争(Mein Kampf)」について纏めました。
私は、大学1年生の時にこの一部を読んだことがあります。

「我が闘争」( Mein Kampf)は、ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーの著作です。
全2巻で、第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版されました。
この書物はヒトラーの自伝的要素と政治的世界観(Weltanschauung)の表明などから構成されていて、ナチズムのバイブルとなりました。
ヒトラーは1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後、獄中でこの書物の執筆を開始しました。
執筆中に本を2巻にすることとし、1巻は1925年当初の発行を予定しました。
ランツベルク刑務所の管理者は「彼(ヒトラー)はこの本が多くの版を重ねて、彼の財政的債務や法廷費用支払の助けとなる事を望んだ」と記しました。
ヒトラーは1924年、ランツベルク刑務所で収監されていたエミール・モーリスに、のちにルドルフ・ヘスに対し口述しました。
出獄後、ベルンハルト・シュテンプフレ、新聞記者のヨーゼフ・ツェルニーらが手直ししていますが、雑な著述と反復が多く、読解するのが困難であったといわれています。
第1巻は、1925年7月18日にナチ党の出版局であるフランツ・エーア出版社から発売されました。
価格は12ライヒスマルクで、当時の一般書の約2倍の値段になりました。
これは、あまり売れないと判断したエーア出版社が、少部数でも元を取れるようにしたためといいます。
1925年には9,473部、1926年には6,913部が売れました。
1926年12月には第2巻が出版されました。
しかしながら、1927年の売り上げは全巻をあわせて5,607部に留まりました。
その後のドイツ国内におけるナチ党の支持層拡大とともに、本の売り上げは増大し、1930年には54,080部が売れました。
また、この年には1巻と2巻を合本した廉価版が8ライヒスマルクで売り出されています。1931年には50,808部が売れ、ヒトラーに多額の印税収入をもたらしました。
ナチ党の権力掌握後、ヒトラー政権下で、「我が闘争」は事実上ドイツ国民のバイブル扱いを受けるようになりました。
結婚する全ての夫婦に同書を贈呈することが奨励され、各自治体がフランツ・エーア出版社に発注した婚礼用の「我が闘争」が、婚姻届を提出した夫婦に贈られました。
本書の販売は、ヒトラーに数百万ライヒスマルクの収入をもたらしましたが、購入者の大半は内容をほとんど読んでいませんでした。
ヒトラーに対する忠誠、ナチ党内での地位の維持、ゲシュタポの追及をかわすために仕方なく購入した者もいたといわれています。
1939年には上下巻を合本し、特別な表装をほどこした「Jubiläumsausgabe」と呼ばれる版が出版されました。
第二次世界大戦敗戦によるナチ党政権崩壊までに、約1,000万部がドイツ国内で出版されたといわれています。
最初の日本語版は、1932年に内外社から刊行された「余の闘争」(坂井隆治訳)です。
以後、終戦までに、大久保康雄、室伏高信、真鍋良一、東亜研究所特別第一調査委員会が訳を手がけ、別々の会社から刊行されています。
ヒトラーはこの書において、アーリア人種(ドイツ人を含む)を文化創造者、日本民族などを文化伝達者 (Kulturträger)、ユダヤ人を文化破壊者としています。
日本の文化というものは表面的なものであって、文化的な基礎はアーリア人種によって創造されたものにすぎないとしています。
強国としての日本の地位もアーリア人種あってのこととしています。
もしヨーロッパやアメリカが衰亡すれば、いずれ日本は衰退して行くであろうとしています。
1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結されて以降、この書物は陸海軍の将校たちに愛読されました。
ところが、井上成美(イノウエ シゲヨシ)海軍中将は、英語とドイツ語に堪能でした。
翻訳された「我が闘争」には、日本に都合の悪いことが削除されていることを看過しました。
最も顕著な記述において、ヒトラーは、「ユダヤ人は文化破壊者」と決めつけ、ユダヤ人絶滅を部下に命じました。
この結果、罪もない600万人のユダヤ人が強制収容所にて命を落としました。
使われたのは、ツィクロンB (Zyklon )という毒薬でした。
強制収容所の入口には「Arbeit macht frei (アルバイト マハト フライ)」の言葉が掲げられています。
「働けば自由になる」という意味です。
何とも皮肉な言葉です。
(了)

25240362 南木佳士著「生きのびる からだ」について - 岡田 次昭
2024/05/07 (Tue) 07:50:12
令和6年4月28日(日) 、私は、高津図書館から南木佳士著「生きのびる からだ」を借りてきました。
この書物は、2009年7月15日、株式会社文藝春秋から第一刷が発行されました。
184頁の中に沢山の参考になる随筆が収められています。
今回は、そのうち、「春になった日」について纏めました。

彼は、作家と医者を兼業しています。素晴らしいことです。

彼は、全編にわたって「体」を「からだ」に統一して書いています。

南木佳士(ナギ ケイシ)さんは、1951年10月13日、群馬県吾妻郡嬬恋村にて生まれました。
本名は、霜田哲夫さんです。
彼は、嬬恋村立東小学校、嬬恋村立東中学校、保谷市立保谷中学校、東京都立国立高等学校を経て、秋田大学医学部医学科を卒業しています。
その後、佐久総合病院に勤務しました。
1981年、「破水」で第53回文学界新人賞を受賞し小説家としてデビューしました。
翌年、「重い陽光」で第87回芥川賞候補、1983年に「活火山」、1985年に「木の家」、1986年も「エチオピアからの手紙」で芥川賞候補になりました。
1989年、彼は、「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞を受賞しました。
1990年から1996年、パニック障害で病棟責任者を辞任しました。
その後鬱病を発症しました。
2008年、『草すべり その他の短編』で泉鏡花文学賞を受賞し、翌年には『草すべり』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。
主な著書は、次の通りです。

『エチオピアからの手紙』文藝春秋、1986年 のち文庫 
破水(『文學界』1981年12月号)
重い陽光(『文學界』1982年4月号)
活火山(『文學界』1982年10月号)
木の家(『文學界』1984年8月号)
エチオピアからの手紙(『文學界』1985年12月号)
1989年『落葉小僧』文藝春秋、1990年 
『医学生』文藝春秋、1993 
『山中静夫氏の尊厳死』文藝春秋
『阿弥陀堂だより』1995年、文藝春秋、
『根に帰る落葉は』田畑書店、2020年
(以後、著書はありません。)



「春になった日」

五十も半ばを過ぎるとにわかに信州の冬の寒さが耐え難くなってきた。
病院の外来で七、八枚の重ね着をした高齢の患者さんたちの口から、
「こんなにさびしい日ばっかりつづきゃあ、凍み(シミ) 死じまうよ」
との発言が最もよく聞かれるのは二月だ。
千曲川が氾濫を繰り返し、高い山の裾を削り崩してできた僅かな平地である佐久平は冬でも晴の日が多く、放射冷却現象の起こりやすい場所で、朝の最低気温が標高千メートル近い軽井沢を下回ることもある。
午前七時、まだ陽の昇っていない氷点下十度以下の大気の中を自転車で勤務先の病院へ向かう。
オーバーズボンをはき、ダウンジャケットのフードを被っているのだが、冷えは露出した顔面の皮膚から浸入し、頬骨を伝って容易に頸へ、背中へ、腰へと下がってゆく。
「いくら凍みたって、死んじゃうことなんかありませんよ」
もっとずっと若かった頃、笑いながらこんな無責任な返答を患者さんたちに投げかけていたことが思い出され、無知を恥じた脳までがずんずん冷えてゆく。
凍み死ぬ。
なんともリアルな表現だ。
歳を重ねるにつれて基礎代謝が低下し、からだが燃えにくくなる。
内臓を冷えから守るための熱しか発生できなくなったからだの手足は幾らこすっても昔のようには温まってこない。
このままぐんぐん冷えてゆけば、やがては内臓の働きも止まる。
すなわち死ぬ。
骨の髄から全身に満ちてくるリアルな死の予感。
医業と小説書きを兼業しつつこの歳まででしたたかに生きてくると、こういうからだの実感に裏打ちされた言葉にしか現実味は覚えなくなる。
あたたまりにくいからだになってみてはじめて、高齢患者さんたちの訴えが肌で理解できるようになった。
みんな死にたくないから病院に通ってきているのだ。
こんなあたり前の事実が、あるときすとんと腑に落ちた。
ひたすら春を待つだけの二月が終わり、三月の声を聞くと自転車をこぐ身も前のめりになるのだが、季節は暦どおりにはうつろわず、寒い日がつづく。
ある日いきなり温度が上がり、ああ、今日唐はるなのだな、とはっきりわかる一日が湧き出る。
今年は三月九日がその日で、最高気温は平年より五、六度高く、よく晴れていた。
一年ぶりに登山靴を出し、近くの平尾山に登った。
急な登りを四十五分。
頂上からは北のすぐそこに雄大な浅間山、西のほうに目を向けると穂高連峰から鹿島槍ケ岳、五竜岳などの峰々が連なり、八ヶ岳も南西に全容をあらわしていた。
携帯ガスコンロで湯を沸かし、紅茶を飲んだ。
温かい液体が食堂を下り、胃に広がる。
凍った雪路を踏みはずさないように緊張して登ってきた全身の力が一気に抜ける。
凍み死なずに冬を越せた。
そんなささいなことがたまらなくうれしくて、全ての山に向かって笑顔を向けてみた。
(了)
25240078 幸田文著・青木玉遍「幸田文 季節の手帖」について - 岡田 次昭
2024/05/06 (Mon) 11:36:58
令和6年4月28日(日)、私は、高津図書館から幸田文著・青木玉遍「幸田文 季節の手帖」を借りてきました。
この書物は2010年2月19日、株式会社平凡社から第一刷が発行されました。
202頁の中に沢山の素晴らしい随筆が収められています。
今回は、そのうち、「柿若葉」について纏めました。

幸田文さんは、明治37(1904)年9月1日、作家の幸田露伴、母幾美(キミ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)にて生まれました。
1928年、24歳で清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚し翌年娘の玉(青木玉)が生まれました。しかし、結婚から8年後、家業が傾き廃業となりました。1936年、築地で会員制小売り酒屋を営みましたが、1938年に離婚しました。彼女は若い娘の玉を連れ父のもとに戻りました。
1955年より連載した長編小説『流れる』で1956年に第3回新潮社文学賞受賞、1957年に昭和31年度日本芸術院賞を受賞しています。また、『黒い裾』で1956年に第7回読売文学賞受賞、『闘』で第12回女流文学賞を受賞しました。
1988年5月に脳溢血により自宅で療養しました。
療養の甲斐なく、1990年10月31日心不全のため亡くなりました。
享年87歳でした。

青木玉さんは、1929年11月30日、東京市芝区伊皿子(現東京都港区)にて生まれました。
彼女は、幸田露伴の孫、幸田文の一人娘です。
娘の青木奈緒もエッセイストです。
いずれも幸田露伴の血を引いた素晴らしい人物です。
青木玉さんは、東京女子大学国語科を卒業しています。
1994年「小石川の家」で芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。


幸田文さんは、女性らしいタッチで花のことを書いています。
男性ではこのような細かいことは書けないと思います。
観察力に優れた文章は誠に素晴らしい。



「「柿若葉」」(原文のまま)

眼ざとい耳ざといということを言うが、眼や耳そのものが、そのとき急に鋭敏に働き出すのではなくて、そのとき心の動きが鋭敏であると、眼や耳が伴ってさとくなるのではないだろうか。
さといのは生まれつきもあり、環境や訓練もあるし、生理状態もあるだろう。
私は眠るのが名人で、部屋が変わったらから、枕がいつものでないからなどという不眠を味わったことがない。
だが老夫の晩年には、別室に病臥している父が寝返りしたり、咳をしたりするとすぐ醒めた。
父に関しての物音には起きるが、鼠が荒れても犬が騒いでも、それでは妨げられなかったのである。
その父が亡くなって、私が一家の主になってみると、さて夜の物音に耳ざとくなっていて、すぐ眼がさめてしまう。
やはり、いくら老病人でも父に頼っていたと、変なところで知らされた。
そのうちおちついてくると、神経も休まったと見え、常態にかえったが、このごろ、これは年齢による耳ざとさになった。
内証話などへの耳ざとさとは違うが、さとさには消長があることたしかだ。
(注)消長とは、盛んになったり、衰えたりすることを意味します。
きょうは投票日で、きのうまでのうるささにひきかえて、ありがたい静かさになった。
静かになったから、けさから大層耳がさとくなっている。
河馬の耳は大変便利にできていて、水へ入るときは穴が塞がってしまう仕掛けになっているが、人間の耳もあまりうるさいところにいると、適度に敏感になって防いでくれるのかと思う。
今朝は本当に掃除の物音などを、久しぶりでさわやかに聴いて、春の朝を楽しんだ。
耳が楽しむときは眼もたのしめるらしい。
ここ数日来、下記の若葉がだいぶひろがってきていた。
毎年、私はこれを楽しみの一つにしているほどなのだが、あんまり絶大なる御支援とどなられると、柿の黄色っぽい葉がいやにもさもさ鬱陶しく、見ていて
眼も気もやすまるどころか「こみすぎてるから、すかしてやろう、鋏持って来てよ」などと言う気にされた。
それがけさは、柔らかくいい葉っぱになっているから、鮮やかである。
柿の葉のきれいさが受け取れれば、それが基準になって、いろんな青の美しさが見えてしまう。
羊歯のギザギザの青、もちの木の新芽、紅だの白だのの花を囲むサクラソウの葉、ことしは日本しか花をつけない鈴蘭の若々しさなどが、映画の中のようにずうっと順々に眼にはいる。
青木の新しい葉はことにみずみずしい。
青が鮮やかに見分けられる時は、陽と影のおもしろさもそこへ浮き出している。
季節もはっきり出ている。色も出ている。形も隠れていない。
けさはいい朝だなあ、そしてこのまいまいつぶろみたいな、ちっぽけでお手軽なすみかも、あしたはこれでまあいいと思って入る、とついひとりごちた。
家人もみなん同感らしくて「まずは平安ね」と言う。
コデマリの花がまっしろである。
(1959年 54歳)
25239653 曽野綾子著「病気も人生 不調なときのわたしの対処法」について - 岡田 次昭
2024/05/05 (Sun) 07:38:50
令和6年4月28日(日)、私は高津図書館から曽野綾子著「病気も人生 不調なときのわたしの対処法」を借りてきました。
この書物は、2020年2月15日、株式会社興陽館から第一刷が発行されました。
238頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「健康は金では買えない」について纏めました。

曽野綾子さんは、1931年9月17日ですから、現在92歳です。
彼女は、このお歳で殆ど病気をしていません。
病気をしない立派な人生を歩んでいます。素晴らしいことです。

後期高齢者になりますと、何らかの病気を持っています。
人間には車のように部品の取り換えはできませんが、治癒力がありますので、軽い病気であれば治ります。
不幸にして、ガンに罹りましても、初期であれば治ります。
日本の医学はかなり進んでいるということです。

余談ながら、2022年の日本人の平均寿命は、男性81.05歳(世界第4位)、女性87.09歳(世界第1位)です。
戦前の平均寿命を40歳としますと、78年後の現在、平均寿命は倍以上になっています。
長生きはいいことですが、これが今後も続きますと、大きな問題が発生します。
まず、労働人口が減少して、経済の活性化が図れなくなります。
ある調査によりますと、日本の人口は、2100年に6,300万人になると報告しています。
現在の半分近くになります。
次に、企業年金や厚生年金の原資が徐々に減少していきます。
払い込む人が少なく、受給者が増加するからです。
それに長生きしますと、残された人生を如何に過ごすかが問題となります。
趣味のない人は、時間の経過が長く感じられるはずです。
趣味というものは、若い時から育むものです。
今からでは遅いといえます。



「健康は金では買えない」(全文)

健康が人生をかなり大きく左右することは紛れもない事実である。
もし私たちが人並に健康だったら、私たちはまず両親や社会や運命に大きく感謝すべきだろう。
なぜなら病気を金で治したと感じる人はいるだろうが、健康な体質を金で買えた人はいないのである。
みんなただで与えられたものである。
この恩恵が見えないようだったら、私たちは自分の人生全体を見透かす眼も既に狂っていると思わねばならない。
その意味でなら、私も自分の体質に、大きな感謝を持たねばならないひとりである。
幼い時からひどい近視であったことは別として、やはり私の体は私の行動の自由を充分に与えてくれたのである。
具体的に考えてみても、私は二十代の前半に、盲腸炎と出産で病院のご厄介になった。
しかしそれ以後は、もうすぐ五十歳になるという時まで、とにかく入院というものをしたことがなくて済んだのである。
その時の入院も、眼の手術だったから、私の首から下は相変わらず健康そのものであった。
私は好き嫌いもあまりなかった。
外国でも、二、三ヶ月なら日本食は全くなくて済む。
土地の食べ物がどこのものでもおいしいのである。
もともと風邪を引いても食欲がなくなったことなど数えるほどしかない。
不潔なものを食べた時でも、人は当たっても私だけは何でもない、ということがよくあって、友だちに「生活程度がわかって、自慢にもならないわよ」と言われたものである。
しかし、喉だけは一年を通じて慢性の咽頭炎で治り切らないというほどの健康体でもない。
この程度の不健康さえなかったら、私は別の意味で不当に思い上がり、人の痛みもいよいよわからなくなっただろう、と思う。
喉が痛くなるだけで、私は自信を失い、体がだるくなって。どうして総理大臣などという忙しい職業に男はつきたがるのだろう、と思い始める。
体を休めることもできない境遇などというものは、私にとっては奴隷の生活なのである。
健康と病気についても、私はいつも対立した二つの思いを持っていた。

一つは、病気はしないでいようと固く決心すると、かなりしなくて済む、という少し乱暴な考え方である。
世間には時々、殆ど病気を楽しんでいるとしか思えない人がいる。
彼らは、自分の病気が大したものではない、と言われると機嫌が悪い。
彼らは、病院や医師も好きである。
病院と医師と無縁で暮らそうと決心するかどうかが、健康を保つ意欲があるかかないかの岐路のように思う。
しかしすることもなくて、暇を持て余すような生活をしていたら、朝起きると先ず、今朝はどこが悪いだろうか、と考えるのも自然であろう。
人間は、病気を探すというような行為であっても、とにかく目的というか、仕事というか、「すること」を探すものである。
私も若くはないのだから、多分体も悪いのだろうが、忙しいからそんなことは考えている閑もないだけである。
それで病気がない、という子供騙しのようなカラクリが成立する。
(了)

25239312 蟹瀬誠一著『男の「定年後」を死ぬまで幸せに生きる方法』について - 岡田 次昭
2024/05/04 (Sat) 08:04:20
令和6年4月28日(日)、私は、高津図書館から蟹瀬誠一著『男の「定年後」を死ぬまで幸せに生きる方法』を借りてきました。
副題は、「7つの選択と4つの行動習慣」です。
この書物は、2018年6月26日、WAVE出版から第一刷が発行されました。
191頁の中に沢山の有益な随筆が収められています。
今回は、その内、「医者や病院には必要以上に近づかない」について纏めました。
蟹瀬誠一さんは、1950年2月8日、 石川県河北郡津幡町にて生まれました。
彼は、埼玉県立浦和西高等学校を卒業後、日本大学文理学部体育学科中退しました。
そして、上智大学文学部新聞学科を卒業しています。
彼は、1974年にAP通信社記者になりました。
その後、フランスAFP通信社を経て、1988年TIME紙東京特派員になりました。
その後、フリージャーナリストとして独立しました。
彼は、主にTBSやテレビ朝日でのキャスターを歴任しました。
それに、2003年3月31日から2006年3月31日まで『蟹瀬誠一 ネクスト!』(文化放送)のパーソナリティーを務めました。
2002年から明治大学文学部で教鞭を執り、2008年に新設された国際日本学部の学部長に就任しています。
2013年度から学部長の座を退き専任教授を務めました。
明治大学で教鞭を執る前はハワイに拠点を置く通信制のランバート大学客員教授を務め、2000年に同大学から名誉博士号を授与されました。
ランバート大学はカリフォルニア州に拠点を置くオンライン通信制のアナハイム大学に吸収され廃校になりましたが、そのアナハイム大学のエグゼクティブ・アドバイザリー・ボードを歴任しています。

主な著書は、次の通りです。

デキる人の手帳術 決定版(三笠書房)
「1日15分」が一生を変える!(三笠書房)
もっと早く受けてみたかった「国際政治の授業」(PHP研究所)
日本人だけが知らなかった英語上達法 (中経の文庫)
男の「定年後」を死ぬまで幸せに生きる方法 (WAVE出版)

「医師や病院には必要以上に近づかないことが長生きの秘訣なのだ。」という言葉を私は気に入りました。
健康寿命を延ばすために、高齢者はそれなりに努力していると思います。
私の場合は、4ヶ月毎に、眼科・内科へ行き定期検査を受けています。
歯科の場合は半年毎に、5週も検査を受けています。
医者に一切行かないというのは、高齢者にとっては危険と私は思います。



「医者や病院には必要以上に近づかない」(全文)

高齢になればなるほど病院通いが多くなる。
目が疲れる、膝が痛い、腰が痛い、血圧が高い、血糖値が高い、目眩がする、夜眠れない、夜のお勤めが辛いなどなど理由は様々だが、それが当たり前だと思っているとしたら、ただちに考え直した方がいい。
医者の仕事は病気を見つけることだからだ。
見つからなければでっち上げる。
あなたの肺にまったく異常がなくても、「陰のようなものが少し見えますから、念のため検査しておきましよう」といった具合だ。
古いポンコツの中古車と同じで、高齢者のあなたには常に点検・修理が必要だと思わせれば大成功なのだ。
経営的には、患者が病気のままできるだけ長く生き続けてくれることが、一番都合がいい。
もちろん、医者がみんなそんな腹黒い悪党だというつもりは毛頭ない。
誠心誠意、患者さんの健康を気遣ってくれる医者もたくさん知っている。
僕自身も主治医に定期的に診てもらっていたお蔭で、癌が早期に発見されて命拾いした一人だ。
僕の場合は胃癌だったが、膵臓癌は「サイレント・キラー」と呼ばれていて、腰や背中の痛みの症状が出た頃にはすでに転移していて手遅れの場合が多いという。
しかし、だからといってあまりにも頻繁に検査を繰り返し「特別診療」と称して高額な検査料を請求したり、これでもかと山ほど薬を処方したりする医者には気をつけたほうがいい。
花粉症などはいい例だ。
毎年春から秋にかけて起こり、くしゃみや鼻水、涙などとまらず辛い。
僕も経験がある。
長年苦しんだ同世代の友人はある年、思い切って医者から処方された薬を止めた。
その代わりに柑橘系の果汁を小さなショットグラスに毎日一杯ずつ飲み始めた。
するとなんとびっくり、症状が劇的に改善した。
それ以来、花粉症の季節でも医者いらずで快適にゴルフを楽しんでいる。
僕の場合はヨーグルトとバナナを毎朝食べ続けていたら、鼻が詰まって寝るのも苦しかった花粉症の症状がいつの間にか消えてしまった。
友達にそれを話したら、間髪入れずに「蟹瀬、それは加齢のせいだ。高齢になると免疫反応は弱くなるからな」と笑われた。僕はまだ68歳です!
高齢者になると誰しも自分の健康が気になるのは仕方のないことだ。
老化しているのだから。だが、だからといって頻繁に病院に足を運び、気がつけば待合室が似た者同士の社交場になってしまうのは、誰が見ても健康的ではない。
「〇〇さん、最近病院にこないね。具合でも悪いのかしら」なんていう定番の冗談があるくらいだ。そんなことをしていたら、身体だけでなく心も老化する。
医師や病院には必要以上に近づかないことが長生きの秘訣なのだ。
僕の知り合いに、ある有名企業の社長・会長職を務めて引退し、80歳を超えても凜としてダンディな方がいる。
定期健診にいくたびにいっぱい薬をもらって帰ってくるが、そのままゴミ箱に捨てているそうだ。
「この歳になって、食べたいものも食べられず、薬漬けになるのはごめんだ」と、真似をしろとはいわないが、そんな生き方もある。
彼の健康法は毎週1回のテニスだ。
お相手は美人テニスコーチ! そりゃあ、薬より元気になるわけだ。
(了)
25238949 藤井康男著「右脳天才モーツアルト」について - 岡田 次昭
2024/05/03 (Fri) 08:50:23
令和6年5月1日(水)、私は書架から藤井康男著「右脳天才モーツアルト」を出してきました。副題は、「なぜ、日本人に心地よいか」です。
この書物は、1991年4月12日、同文書院から第一刷が発行されました。
241頁の中に、モーツアルトの曲が沢山紹介されています。
今回は、その内、「ビオラの名曲『弦楽五重奏 ハ長調』」について纏めました。

藤井康男さんは、昭和5(1930)年8月14日、東京都千代田区東神田にて生まれました。
彼は、昭和29年に千葉大学薬学部を卒業し、大阪大学大学院理学研究科生物化学専攻を終了しています。
昭和30年に龍角散に入社しました。
昭和32年に子会社のヤトロンと血清トランスアミナーゼ測定試薬(GOT・GPT)を自ら開発しました。
昭和38年、三十代の若さで、龍角散の7代目社長に就任しました。
昭和42年~52年まで北里大学助教授を務めました。
彼は、クラシック音楽にも精通し、自らピアノ、フルートを演奏しました。
龍角散室内管弦楽団の定期演奏会ではソリストを務めました。
文筆家としても知られ、著書に「病気と仲よくする法」「創造型人間は音楽脳で考える」「右脳人間」「文科的理科の時代」「仕事と遊びは掛け算でいけ」「カラヤンの帝王学」「ビジネスマンの父より愛をこめて」などがあります。
平成8(1996)年11月10日、彼は亡くなりました。
享年67歳でした。

私は、『弦楽五重奏曲 ハ長調 K515』を含むCDを持っています。
その明細は、次の通りです。

『弦楽五重奏曲 第三番 ハ長調 K515』
『弦楽五重奏曲 第四番 ト短調 K516』

アルバン・ベルク四重奏団(下記の4名)

第一ヴァイオリン  ギュンター・ビヒラー
第二ヴァイオリン  ゲルハルト・シュルツ
ビオラ       トマス・カクシュカ
第二ビオラ     マルクス・ヴォルフ
チェロ       ヴァレンティン・エルベン 

モーツアルトは、弦楽五重奏曲を6曲残しています。
この中で、一番有名なのは、『弦楽五重奏曲 第三番 ハ長調 K515』です。
私は、時折この曲を聴きながら、深い眠りに落ちます。
弦楽五重奏曲の重厚感は、これを聴いた人のみが理解できます。
残念ながら、下記に登場する『シンフォニア・コンチェルタント(K320e)』のCDを所有していません。



「ビオラの名曲『弦楽五重奏曲 ハ長調 K515』」(全文)

モーツアルトはヴァイオリンを弾かなくなってからビオラという楽器に深い愛情を覚えたようです。
ビオラは素人が見るとヴァイオリンと同じ様な楽器に見えますが、並べてみるとひとまわり大きい。
したがって、音域も少し低い。
弦楽四重奏曲は音楽の究極の形式といわれ、第一、第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロで編成されます。合唱でいえばソプラノ、アルト、テノール、バスという形です。
この中で、第一ヴァイオリンとチェロがメロディを弾き、第二ヴァイオリンとビオラは「肉声」といって全体に厚味と深味、色合いを添える役割を果たします。
脇役という言い方は適当ではありませんが、音楽の内側で目立たないけれど大切な仕事をするわけです。
そして、モーツアルトはどういうわけかそんな仕事をする楽器に非常に興味深い愛着を持ったわけです。
ビオラは名手が弾くとヴァイオリンより深味があって、しかも甘い音が響く大変心地よい楽器ですが、なにしろヴァイオリンよりひと周り大きいので弾きこなすのが難しい。名手が出てきにくい楽器の一つです。
モーツアルトはこのビオラを使った非常にすばらしい曲をいくつか残しています。
その一つ、出だしがチェロの低音で始まる『弦楽五重奏曲 ハ長調 K515』は、弦楽四重曲の編成にわざわざビオラを付け加え、これに独奏楽器としての役割を与えた曲です。
『シンフォニア・コンチェルタント(K320e)』といって、ヴァイオリンとビオラ、チェロを独奏楽器に仕立てた、複数の独奏楽器とオーケストラの協奏曲がありますが、これもまたすばらしい曲です。非常に難しい技巧を要求されるにもかかわらず、繰り返し演奏されているビオラの名曲です。
モーツアルトの性格は出たがり屋で派手、しかも、おっちょこちょいで遊び好きですが、ビオラが好きというのは、味わい深く、重厚な性格も彼の中にあったということでしょうか。
楽器の好みとその人の性格にある主の関係があるというのはかなり説得性のある話だと思います。
私の知っているところでは、ビオラ弾きは温かく、控え目、他人を引き立てるのを好むという傾向が強いように思われます。
この辺りもモーツアルトの謎の一つです。
(了)
25238598 幸田文著「老いの身じたく」について - 岡田 次昭
2024/05/02 (Thu) 08:34:43
令和6年4月28日(日)、私は高津図書館から幸田文著「老いの身じたく」を借りてきました。
この書物は、2022年1月12日、株式会社平凡社から第一刷が発行されました。
これを纏めたのは、青木奈緒さんです(玉の長女)です。
251頁の中にたくさんの随筆が収められています。
今回は、その内、「くぼみ」について纏めました。

幸田文さんは、明治37(1904)年9月1日、作家の幸田露伴、母幾美(キミ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)にて生まれました。
1928年、24歳で清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚し翌年娘の玉(青木玉)が生まれました。しかし、結婚から8年後、家業が傾き廃業となりました。1936年、築地で会員制小売り酒屋を営みましたが、1938年に離婚しました。彼女は若い娘の玉を連れ父のもとに戻りました。
1955年より連載した長編小説『流れる』で1956年に第3回新潮社文学賞受賞、1957年に昭和31年度日本芸術院賞を受賞しています。また、『黒い裾』で1956年に第7回読売文学賞受賞、『闘』で第12回女流文学賞を受賞しました。
1988年5月に脳溢血により自宅で療養しました。療養の甲斐なく、1990年10月31日心不全のため亡くなりました。
享年87歳でした。当時としては、長寿を全うした一人といえます。

難聴の人と話をする場合は、優しく接することが肝要と思います。
大きな声を出して話しかけると相手の気持ちを損なう恐れがあります。
相手の立場を慮って話をしなければなりません。

幸田文さんは、女性らしく、雀の動向をよく観察しています。
男性では無理と思います。
高齢者になりますと、難聴になる可能性は深まります。
私の知り合いの中にも、数人います。
難聴になる兆候を素人の方は把握することができませんので、始末に負えません。
私は、首から上、即ち、歯・耳・目の定期検査を年に3回以上受けています。

                    記

「くぼみ」(全文 原文のまま)

久しぶりに親しい友だちに逢った。もう十年もずっと、気持ちよく付き合っているのだが、このところしばらく逢う折がなかったのである。このひとは気の毒なことに、去年耳を痛めて軽い難聴になったので、多少外出が記憶劫のようだし、こちらもまた昨冬から風邪はこじらせる、膝は痛むという始末で、互いに思いやって案じつつも無沙汰ばかり。だから半年ぶりで逢えば、ひどく久しかったような気がしてうれしかった。
いきいきした表情をしていた。難聴になってから丁度一年になる、といった。自分の庭の花の話、短歌をはじめてみたこと、それにつけて習字もしたくなったこと、鯉のおよぐ姿の美しさ、猫の眠る姿の愛しさなどを、それからそれへと穏やかに話す。一時間ほど話してかえった。
この前に逢った時にくらべれば、随分違って、八九分通りはもう難聴の不仕合わせも克服したようだし、ものの考え方も生活態度も今は以前の通りの、明るさと落ち着きを取り戻したようなのである。
これだけしっかりと気持を建て直すには、どれほど努力がいったろう、さぞ人知れぬ辛さを味わったろう、愚痴をいわないまでになるには、総統苦悩したはずだと思いやると、たのしくもあり爽やかでもあり、そして悲しくもなる。帰った後のその部屋には、しみじみした情感が漂い残っていて、陽があかるかった。
ちょんちょんと雀がでてきた。こちらがぼんやりしている時には、雀はまるで手品かなどのように、不意にそこへ出てくる。飛んできたでも、歩いて来たでもなく、いきなりそこに現れて、ちょんちょんと跳ねる。縁先のすぐのところまできて、特有の隈をもつ顔をかたげ、利口げに周囲を窺うと、砂浴びを始めた。羽根をあげ羽毛をふくらませ、愛らしい恰好をする。なぜそんな雨落ち近くまで来て砂を浴びるかと言えば、そこはつい十日ほど前までパンジーを植えてあり、今は素枯れたの、抜いた跡なのである。だから土が柔らかに、こまかく、乾いている。
そのパンジーは、いましがたここにいた、そのひとからのプレゼントだった。毎年、パンジーだのデージーだのを箱いっぱいにつめて、私に春を恵んでくれるのである。縁近く植えた花は、夏まで咲きつぐが、終わった後は、雀が愛らしく踊ってくれて、これも毎年の決まりになっている。みんな三羽、花が植わっていた通りに一列にならんで、用心しながらややしばらく遊んで、急に逃げて言った。そのとき、ふっと「そうか、そうだったんだ」とわかる思いがきた。あの人は、返事のいらない話ばかりをしていた、と改めて気がついたのである。
難聴の人にものをいうのには、声を二倍に張らなければならない。返事のいることを問いかけられれば、いきおい大声をだしてはなさずにはいられないかが、それは案外、心身ともに疲れることだ。そこを含んで、こちらに負担をかけないため、多分――そう、多分出掛けてくる前からもう、ああいうさらさらした話題を選んで、用意していたとおもう。そうでなければ、ああはいくまい精々して話ばかりの連続だった。私は負担をかけない心づかい、そして自分の不自由を仮にも押しつけまいとする心ばえ――迂闊にも私は、ええとか、そうねえとか相槌を打つだけで、その一時間をのんべんと聞き役にまわって、なんにも気付なかったのである。思えば向こうの心深さ、そしてこちらのなんという浅い心の申し訳なさる
身にしみる思いである。苦難は人を玉川にするというし、身に病むところがあればこころは聡しという。もともとサッパリした性質の人だが、難聴になって心に深みを加えたのは見事である。今度はいつ逢うだろう。見ざめされないように、よほどしまっておかなければ駄目だ、と思って考えるのである。
三羽の砂風呂が三つ、一列に並んで、小さい摺鉢形の穴をくぼませている。常は翌朝の掃除までほったらかしにしておくその穴を、ていねいに掃きよせて地ならしをしつつ、こうした些事も心を深める一助にと思う。
(1969年9月 64歳)
25238132 大木毅著「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」について - 岡田 次昭
2024/05/01 (Wed) 09:31:06
令和6年4月26日(金)、私は、書架から大木毅著「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」を出してきました。
この書物は岩波新書として2019年7月19日に第一刷が発行されました。
2019年12月16日には、第9刷が発行されています。
如何にこの書物が売れているかが分かります。
248頁の中にナチス・ドイツ、とりわけ独ソ戦のことが詳細に書かれていて、私は大いに興味を持ちました。
独ソ戦は、史上最大の戦車対戦車の戦争でした。
今回は、すべてを紹介することはできませんので、私は「はじめに」の全文を記載するに留めました。
これを読めば、独ソ戦の概要を理解することが出来ます。
独ソ戦は、世界史上最大の戦争です。

著者の大木毅さんは、昭和36(1961)年に東京都にて生まれました。
彼は、立教大学文学部史学科を経て、同大学院文学研究科博士課程に進みました。
専攻はドイツ近代史です。
ドイツ学術交流会奨学生として、ドイツのボン大学に留学しました。
その後、日本学術振興会特別研究員、千葉大学・横浜市立大学などの非常勤講師などを経て、1998年、『魔大陸の鷹』で単行本デビューしました。
現在は作家として活動する傍ら、研究者としてはナチス・ドイツの政治外交史を研究しています。

私は大学に入学した時、第二外国語としてドイツ語を選びました。学んでいるうちに、ヒトラー著『我が闘争(Mein Kampf)』に出逢い、その一部を原文で読んだ経験があります。

概要は、次の通りです。

『我が闘争』の著者は、ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーです。
第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版されました。
ヒトラーの自伝的要素と政治的世界観(Weltanschauung)の表明などから構成されています。
第1巻となる前半部分は自分の生い立ちを振り返りつつ、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述されています。
全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤ主義および軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されています。
第2巻となる後半部分では、自らの政治手法、群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されています。
戦争や教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言しています。
特に顕著なのは人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観です。
ここで、ヒトラーはアーリア人種の優秀さを力説しています。
ヒトラーは、あらゆる反ドイツ的なものの創造者であると定義されたユダヤ人に対する反ユダヤ主義も重要な位置を占めています。
ただし、ユダヤ人大量虐殺についての記述は全くありません。
記述後に、ユダヤ人絶滅の指令を出したものと思います。
外交政策では、フランス共和国に対して敵愾心を持ち、ソヴィエト社会主義共和国連邦との同盟を「亡滅に陥る」と批判し、「モスコー政権〔モスクワ政権〕はまさにそのユダヤ人」であるとしています。
現時点で同盟を組むべき相手は、イギリスとイタリアであるとしています。
ドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ソヴィエト社会主義共和国連邦を征服して、東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとしました。
これは東方における生存圏(Lebensraum) 獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したもので、後の独ソ戦の要因の一つとなりました。
『我が闘争』のドイツ語原典は、旧制高等学校のドイツ語の授業などにおいて、教科書としても用いられました。
ヒトラーはこの書において、アーリア人種を文化創造者、日本民族などを文化伝達者 (Kulturträger)、ユダヤ人を文化破壊者としています。
日本の文化というものは表面的なものであって、文化的な基礎はアーリア人種によって創造されたものにすぎないとしています。
強国としての日本の地位もアーリア人種あってのこととしています。
もしヨーロッパやアメリカが衰亡すれば、いずれ日本は衰退していくであろうと書いています。
なお、ドイツ語の原著を読んだ大日本帝国海軍軍務局長の井上成美は「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」と、当時の海軍省内に通達しています。

ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツと同等もしくは劣勢であると考えられる国々であったのに対し、ソヴィエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していました。
戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していました。
すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白でした。
独ソ戦は、結局のところドイツ側の敗北に終わりました。

1939年9月1日、ナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻しヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こしました。
5年強にわたる戦争も、戦況の悪化の末ヒトラーが自殺し、1945年5月8日、連合国軍に無条件降伏をして、滅亡しました。



「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(「はじめに」の一部)

1. 未曾有の惨禍

1941年6月22日、ナチス・ドイツとその同盟国の軍隊は、独ソ不可侵条約を破って、ソヴィエト連邦に侵攻した。
1945年まで続いたこの戦争は一般に「独ソ戦」と呼ばれる。
ドイツ、ないしは西欧の視点から、第二次世界大戦の「東部戦線」における戦いと称されることも少なくない。
いずれにせよ、この戦争は、あらゆる面で空前、恐らくは絶後であり、まさに第二次世界大戦の核心、主戦場であったといってよかろう。独ソ戦においては、北は不インランドから南はコーカサスまで、数千キロに渡る戦線において、数百万の大軍が激突した。戦いの様態も、陣地に拠る歩兵の対陣、装甲部隊による突破進撃、空挺作戦、上陸作戦、要塞攻略等々、現代の陸戦のおよそあらゆるパターンが展開され、軍事史的な観点からしても、稀な戦争であった。
この戦争で生起した諸戦役の空間的規模は、日本人には実感しにくいものであろう。
旧陸軍将校あった戦史家、加登川孝太郎は、スターリングラードの戦いを、日本の地理にあてはめた、興味深い記述を試みている。理解の補助とするため、ここに引用しておこう。本書133頁の地図を参照しつつ、お読み戴きたい。
『ヴォルガ川岸にあるスターリングラードを、墨田川にある東京においてみよう。すると、ドイツ第14装甲師団が突破進出した市の北部は草加付近、ソ連軍が最期まで確保した南部のペケトフカは横浜港付近となる。(中略)ドン川の河口のロストフ・ナ・ドヌーは奈良県南部の山岳地帯にあたる。ドン川をさかのぼると、伊勢市、浜松市(ツイムリンスカヤ)、静岡市を経て富士山の西に出て、更に大菩薩(カラチ・ナ・ドヌー)、熊谷市、長野市、富山市を通り、上流のヴオロニェシ金沢の北北西250キロの日本海のなかにあたる。この戦いの発端となったハリコフは、金沢の西北西300キロの海中になる。』
しかし、独ソ戦を歴史的に際立たせているのは、そのスケールの大きさだけではない。
独ソ共に、互いを妥協のない、滅ぼされるべき敵とイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。
およそ4年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツとソ連の間では、ジェノサイドや捕虜虐殺など近代以降の軍事的合理性からは説明できない。無意味であるとさえ思われる蛮行が幾度も繰り返されたのである。そのため、独ソ戦の惨禍も、日本人には想像しにくいような規模に達した。
(注) ジェノサイドは、国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊することを意味します。
まず、比較対照するために、日本の数字を挙げておこう。1939年の時点で、日本の総人口は約7,138万人であった。ここから動員された戦闘員のうち、210万ないし230万名が死亡している。さらに、非戦闘員の死者は55万ないし80万人と推計されている。
充分に悲惨な数字だ。けれども、独ソ両国、なかんずくソ連の損害は桁が違う。
ソ連は1939年の段階で、1億8,879万3千人の人口を有していたが、第二次世界大戦で戦闘員866万8千人ないし1,140万名を失ったという。軍事行動やジェノサイドによる民間人の死者は450万ないし1,000万人、ほかに疫病や飢餓により、800万から900万の人の民間人が死亡した。死者の総数は、冷戦時代には、国力低下のイメージを与えてはならないとの配慮から、公式の数字として2,000万人とされた。しかし、ソ連が崩壊し、より正確な統計が取られるようになってから上方修正され、現在では2,700万人が失われたとされている。
対するドイツも、1939年の総人口6,930万人から、戦闘員444万ないし531万8千名を死なせ、民間人の被害も150万ないし300万に及ぶと推計されている(ただし、この数字は独ソ戦の損害のみならず、他の戦線でのそれも含む。)
このように、戦闘のみならず、ジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられたのである。人類史上最大の惨戦といっても過言ではあるまい。

2. 世界観戦争と大祖国戦争

こうした悲惨をもたらしたものは何であったか。まず、総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種(Untermensch)」スラブ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、「独ソ戦」は「世界観戦争(Weltanschauung Krieg)」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした。
(注)「劣等人種(Untermensch)」は、ナチスがユダヤ人、ロマ、スラブ人(主にポーランド人、セルビア人、ロシア人)といった「東方からの集団」の非アーリア人を「劣等人種」と表現した用語です。この用語は、黒人や有色人にも使用されていました。ユダヤ人は、ロマや、身体的、精神的な障害者と共に、ホロコーストにより解決されることとなりました。東部総合計画によって、東部中欧のスラブ人の大部分がアジアに追放され、第三帝国内で奴隷労働者として使われ、一部がホロコーストの大量虐殺により、人口が減少しました。この概念は、ナチスの人種政策の重要部分でした。
1941年3月30日、招集されたドイツ国防軍の高級将校たちを前に、ヒトラーは、 このように演説している。
『対立する二つの世界観の間の闘争。反社会的犯罪者に等しいボリシェヴィズムを撲滅するという判決である。共産主義は未来への途方もない脅威なのだ。我々は軍人の戦友意識を捨てねばならない。共産主義者はこれまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない。みな殺しの闘争こそが問題となる。もし、我々がそのように意識しないのであれば、なるほど敵を挫くことはできようが、30年以内に再び共産主義という敵と対峙することになろう。我々は、敵を生かしておくことになる戦争などしない。』
ヒトラーにとって、世界観戦争とは「みな殺しの闘争」、則ち、絶滅戦争にほかならなかった。加えて、ヒトラーの認識は、ナチスの高官たちだけでなく、濃淡の差こそあれ、国防軍の将官たちもひとしく共有するものであった。
そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にしても、ソヴィエト共産党書記長であるヨシフ・V・スターリン以下の指導者は、コミュニズムとナショナリズムを融合させ、危機を乗り越えようとした。かつてナポレオンの侵略をしりぞけた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。
これは、対独戦は道徳的・倫理的に許されない敵を滅ぼす聖戦であるとの認識を民衆レベルまで広めると同時に、ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返したことと相俟って、報復感情を正当化した。戦時中、対独宣伝に従事していたソ連の作家イリア・エレンブルグは、1942年に、ソ連軍の機関紙『赤い星』に激烈な筆致で書いている。
『ドイツ軍は人間ではない。いまや「ドイツの」という言葉は、最も恐ろしい罵りの言葉となった。(中略)もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう。ドイツ軍はあなたの家族を連れ去り、呪われたドイツで責め苛むだろう。(中略)もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、次の一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ』
このような扇動を受けて、ソ連軍の戦時国際法を無視した行動もエスカレートしていった。両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映したかのように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈していったのである。

3. ゆがんだ理解

右に述べたような、独ソ戦の「世界観戦争」としての性格が、欧米の研究において強調されてきたことはいうまでもない。戦後のドイツ連邦共和国(通称、西ドイツ。現在のドイツ)において、かつて高級軍人たちは、国防軍はナチ犯罪に加担していないとする「清潔な国防軍」伝説を広めたが、これも「国防軍展」(国防軍のジェノサイドへの関与等を暴露した巡回展覧会)をきっかけに、1990年代には否定された。
ところが、日本では、専門の研究者を除けば、こうした独ソ戦の重要な側面が一般に理解されているとは言い難い。独ソ戦と言えば、ドイツ国防軍の将官の回想録や第二次世界大戦に関する戦記などの翻訳書等を通じて、一部のミリタリー・ファンに、専ら軍事的な背景や戦闘の経緯などが知られるばかりであった。しかし、そのような翻訳書、若しくは、それらをもとにした著作は、今となっては問題が少なくなかったことも明らかになっている。
ドイツ軍人たちの回想録の多くは、高級統帥に無知なヒトラーが、戦争指導ばかりか、作戦指揮にまで介入し、素人くさいミスを繰り返して敗戦を招いたと唱えた。死せる独裁者に敗北の責任を押しつけ、自らの無謬(ムビュウ)性を守ろうとしたのである。
ヒトラーが干渉しなければ、数に優るソ連軍に対しても、ドイツ国防軍は作戦の妙により勝利を得ることが出来た。そのような将軍たちの主張はまた、ソ連の圧等的な軍事力と対峙していた冷戦下の西側諸国にとっても都合のよいものであった。
1970年代以来、日本人の独ソ戦理解を決定づけたのは、こうした回想録を初めとする、さまざまな戦記本であった。中でも影響力が大きかったのは、『砂漠のキツネ』『バルバロッサ』『焦土作戦』などの一連の著作で知られる、パウル・カレル、本名パウル・シュミットであろう。ナチス政権のもと、若くして外務省報道局長の要職に就いた人物だ。戦後、本名や経歴を隠して、「パウル・カレル」の筆名で書いた著作は、日本でもベストセラーとなり、独ソ戦に関する研究書がほとんどなかった時代に、広範な読者を獲得した。研究者の中にも「歴史書」として依拠(イキョ)する者がいたほどである。
(注)依拠(イキョ)とは、よりどころとすることです。
しかしながら、カレルの著作の根本にあったのは、第二次世界大戦の惨禍に対して、ドイツが追うべき責任はなく、国防軍は、劣勢にもかかわらず、勇敢かつ巧妙に戦ったとする「歴史修正主義」だった。そうしたカレルの視点からは、国防軍の犯罪は漂泊されていた。カレルのナチ時代の過去を暴いたドイツの歴史家ヴィクベルト・ベンツは、独ソ戦をテーマとした『バルバロッサ』『焦土作戦』を精査したが、国防軍の蛮行について触れた部分は、ただの一ヶ所もなかったと断じている。
このように、カレルの描いた独ソ戦像は、ホロコーストの影さえも差さぬ、あたかも無人の地で軍隊だけが行動しているかのごとき片寄った見方を読者に与えるものであった。こうした彼の経歴やイデオロギーに由来する歪曲は、かねて問題視されていたが、2005年のベンツによるパウル・カレル伝の刊行により、はじめて体系的に批判されたのである。
その後、カレルの記述の中には、ドイツ軍の「健闘」、今一歩で勝てるところだったのだという主張を誇張するために、実際には存在しなかった事象が含まれていることも確認されている。ドイツ連邦国防軍軍事史研究局による第二次世界大戦史から引用しよう。クルクス会戦の重要な局面、プロホロフカの戦車戦を論じた箇所だ。
「この筋書き{1943年7月11日に、プロホロフカで大戦車戦が行われたという、戦後のソ連側、とりわけ当時者であるロトミストロフ将軍の主張}は、ドイツの戦記作家パウル・カレルの空想を刺激した。彼は、{ドイツ}第三装甲軍団のプロホロフカへの競争を、こう演出した。
『戦史上、そうした事例には事欠かない。今も、戦争の帰趨を左右することになるような運命的決定が、時計の進み方如何に懸かっていた。日単位ではない。時間に、だ。「ワーテルローの世界史的瞬間」が、プロホロフカに再現されたのである。』。著しい苦境に陥っていたイギリス軍の総師ウェリントンを助けに急ぐプロイセンのブリュッヒャー元帥と、その介入を妨げようとして失敗したナポレオンの元帥グルーシーの間で争われたワーテルローにおける競争にたとえたのだ。当時のグルーシー元帥同様、プロホロフカのケンプフ将軍(ドイツ側)も到着が遅すぎたというのである。
しかし、ドイツの文書館史料からは、この7月12日の競争など全くなかったし、いわんやロトミストロフが記述したようなプロホロフカ南方の戦車戦など存在しなかったことが判明する。当該戦域には、最大時で44両の戦車を有するのみの〔ドイツ〕第六装甲師団があっただけである。
このような欠陥が暴露されて以来、欧米諸国の学界では、カレルの著作は読者の理解を歪めるものとされ、一顧だにされていない。ドイツにおいては、彼の諸著作は、上梓以来、版を改めては刊行され続けてきたが、2019年現在、すべて絶版となっている。

4. スタートラインに立つために

残念ながら、日本においては、こうしたパウル・カレル以来の独ソ戦像が、今日までも強固に残存しているのが実情である。ところが、その一方で、1989年の東欧社会主義圏の解体、続く1991年のソ連崩壊によって、史料公開や事実の発見が進み、欧米の独ソ戦研究は飛躍的に進んだ。日本との理解・認識のギャップは、いまや看過しがたいほどに広がっている。
本書は、こうした状況に鑑み、現在のところ、独ソ戦に関して、史実として確定していることは何か、定説とされている解釈はどのようなものか、どこに議論の余地があるのかを伝える、いわば独ソ戦研究の現状報告を行うことを目的とする。日本においては、何よりもまず、理解の促進と研究の深化のためのスタートラインに立つことが必要かつ不可欠であると考えるからだ。
その際、中心となるのは、日本語で参照できる文献が少ない、戦史・軍事史面からの論述であり、それが本書の基軸となる。しかし、「世界観戦争」としての独ソ戦は、純軍事面のみを論じたところで、その全貌を掴めるものではない。政治、外交、経済、イデオロギーの面からもみる必要があろう。そこで、本書では、こうした面についても、随所に織りまぜて論じることにする。人類史上最大にして、もっとも血なまぐさい戦争を遺漏なく描ききることは、このような小著では、もとより不可能であろう。
けれども、筆者の試みが、未曾有の戦争である独ソ戦を「人類の体験」として理解し、考察する上での助けとなることを期待したい。
(了)
25237651 志鳥栄八郎著「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」について - 岡田 次昭
2024/04/30 (Tue) 08:03:12
令和6年4月28日(月)、私は書架から志鳥栄八郎著「クラシック名曲ものがたり集成」を出してきました。
この書物は、1993年11月20日、株式会社講談社から第一刷が発行されました。
701頁の中に、たくさんの名曲の解説がなされております。
文庫本でありながら、税抜き価格は、1,500円です。
この一冊で、名曲のほとんどすべてを知ることが出来ます。
音楽愛好家にとっては、必携の書です。
今回は、「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」について纏めました。

私は、「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」を含むCDを所有しています。
詳細は次の通りです。

曲名 チャイコフスキー ピアノ協奏曲 変ロ長調 第一番 作品 23 
演奏時間  32.57
   ショパン     クラコヴィアーク 作品14 演奏時間  13.45

指揮 ウィレム・ヴァン・オッテルロー
楽団 ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団

チャイコフスキーは、初めてピアノ協奏曲に挑戦しました。
最初は、尊敬するニコライ・ルビンシュタインに酷評されましたが、ボストンやモスクワでの演奏において大成功を収めました。
この素晴らしい「ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」は15年後には、ニコライ・ルビンシュタインの意見に従い、全面的に改訂され出版されました。

チャイコフスキーの作品の内、特に有名なのは、「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」それに「ピアノ協奏曲 変ロ長調 第一番」です。
私の好きな曲は、弦楽四重奏曲1番 ニ長調とピアノ三重奏曲イ短調「偉大な芸術家の思い出に」ですこの2曲は隠れた名曲です。
特に、弦楽四重奏曲1番 ニ長調の第二楽章は、アンダンテ・カンタービレ(歩くような速さで歌うように)で、私の最も好きな楽章です。

この当時の音楽家というのは、経済的に困窮人が多かったようです。
モーツアルトもチャイコフスキーも例外ではありませんでした。
裕福な生活を送ったのは、メンデルスゾーンだけでした。

蛇足ながら、有名な作曲家の誕生日と没年月日を調べて見ました。

モーツアルト (Mozart)    1756~1791 享年35歳
メンデルスゾーン(Mendelssohn) 1809~1847  享年38歳
チャイコフスキー(Tchaikovsky) 1840~1893  享年53歳
ベートーヴェン (Beethoven) 1770~1827  享年57歳
ブラームス (Brahms) 1833~1897  享年64歳



「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」(全文 原文のまま)

1874年、のクリスマスの前日、モスクワの大通りを音楽院に向かって急ぐ男の姿があった。チャイコフスキーであった。書きあげたばかりの「ピアノ協奏曲 第一番」の草稿をしっかりと小脇に抱え、せかせかと足を運ぶ彼の胸は期待でふくらんでいた。その日、モスクワ音楽院の一室で、彼が敬愛してやまない院長のニコライ・ルビンシュタインが、二人の同僚の教授と一緒に、彼のその新曲を聴いてくれることになっていたからである。
ニコライ・ルビンシュタインは、チャイコフスキーがペテルブルク音楽院で教えを受けたアントン・ルビンシュタインの弟にあたるロシア音楽界の実力者で、そのピアノの腕前は、国際的に名前の知られていた兄のアントンに、勝るとも劣らないといわれていた名手であった。1866年にモスクワに音楽院を開校した時、彼は、ペテルブルク音楽院を卒業したばかりのチャイコフスキーを教授陣に迎え入れ、それ以後かゆいところに手の届くような親身の世話をしてくれた。そのようにして彼は、チャイコフスキーを世に出すために最大の努力を払ってくれた大恩人なのである。
チャイコフスキーは、常々、何か立派な作品を書いて、そのニコライの恩義に報いたいと考えていたが、なかなかその機会がなかった。たまたま、1874年の夏、ペテルブルク音楽協会のオペラ・コンクールに応募した「鍛冶屋ワークラ」の作曲が予定よりもずっと早く完成したので、彼はいよいよニコライのための作品にとりかかったのである。
作曲に着手したのは、10月に入ってからだったが、作曲は思ったより難航した。というのは、その頃まで各種の作品を手掛け、豊富な経験を積んでいたものの、チャイコフスキーにとって、ピアノ協奏曲というのは初めての作品だったからである。それでも、仕事の早い彼は2ヶ月という短期間で完成し、その時になって初めて、ニコライに作曲のことを打ち明けたのだった。そこで、その日、試演会が行われることになったのである。
この試演の模様は、二人の当事者によって伝えられている。一つは、チャイコフスキー自身がのちに後援者のナジェージダ・フォン・メック夫人に宛てた手紙の中でこの時のことを回想して報告しているもので、もう一つは、同席したカーシュキンが、チャイコフスキーの死後に発表した手記「チャイコフスキーの思い出」の中で述べている。この二つは、細かな点ではいくつか食い違いがあるが、大筋では大体一致している。作品の出来映えに、大変自信を持っていたチャイコフスキーは、ニコライからそれを認めてもらい、かつ演奏家としての適切な助言を与えられることを期待していたが、事態は思わぬ方向に進展した。
ニコライとグーベルトそれにカーシュキンの顔が揃ったところで、チャイコフスキーは、まず第一楽章を弾いた。ところが、どうしたことか、いつもなら直ちに好意溢れた感想を述べてくれるニコライは一言もいわず、他の二人も押し黙ったままであった。これでは、チャイコフスキー自身も述べているように、せっかく苦労して作った自慢の料理を、
ただ黙々と口に運んでいるのを見ているかのようで、張り合いがないこと夥しい。
チャイコフスキーは、辛抱して曲を終わりまで弾いたが、それでもまだ、ニコライがそのまま沈黙を守っていたので、ピアノから身を起こすと、「どうでしょう?」と尋ねた。すると、それを待っていたかのように、ニコライの口から発せられた言葉は、チャイコフスキーが無想もしなかった、悪意に満ち満ちたものだった。
「まるっきりダメだね。なっちゃいない、演奏不可能だよ。曲そのものがつまらないうえに、パッセージはメチャクチャで、不器用だ。君、このまま残せるのは二、三ページしかないね。後は捨ててしまうか、すっかり書き直しをするか、とにかく、これではどうにもならないよ。」
そして、ピアノの前に座ると、
「ほら、例えばここのところだがね。いったい、これはなんという書き方なんだい。全く下手で話にならん」
こんな調子で、彼の気に入らない部分を次々に弾いてみせては、口汚くののしったのだった。
カーシュキンは、チャイコフスキーに同情して次のように述べている。
「ニコライ・ルビンシュタインは、その時、ことさら下手に弾いたように感じられた。同席したグーベルト教授も、いちいち同感といった顔つきをしていた。チャイコフスキーは、この二人に対して激しい怒りに燃えた。彼は、ニコライ・ルビンシュタインを、ピアニストとして、また音楽家として非常に尊敬していたから、もしルビンシュタインが、もっと穏やかな調子で意見を述べてくれたなら、たとえ曲にとってはためにならない変更があったとしても、恐らく彼は承諾したに違いない」
チャイコフスキーは、こうしたニコライの態度に深く傷つけられ、ひったくるようにしてその楽譜を手にすると、憤然として部屋を出ていった。ニコライは、この様子を見ていささかあわてて、チャイコフスキーを別の一室に呼び入れると、もし、自分があげたような箇所を書き換えるなら、演奏会で弾いてもよいと申し入れた。しかし、事態がこじれにこじれてしまうと、なまなかなことでは収拾は困難である。既に感情的に限界にきていた彼は、キッパリと答えた。
「一音譜だって変えるつもりはありません。このまま発表します!」
こうして、これまで大変親しかったこの二人の間は、この時以後暫くは深い溝が生じ、次第に冷え込んでいったのである。
カーシュキンによると、ニコライ・ルビンシユタインは、こと芸術について全くの理想主義者で、いかなる妥協も許さなかったし、また個人的好悪を持つこともなかったという。そして、作曲家としてのチャイコフスキーを高く評価していたので、好んでチャイコフスキーの作品を取り上げたし、演奏する時は、あたかも自分の作品ででもあるかのように極めて熱中して取り組み、全身全霊を投入したという。
それほどに良き理解者であった彼が、なぜこの時に限ってひどい偏見をもって作品に接したのだろうか。考えられることの一つは、チャイコフスキーが、この曲の作曲に当にたって、技術的なことを何ひとつニコライに相談しなかったので、そのためにプライドを傷つけられたように感じたのではないか、ということである。
大体、どのような楽器のための協奏曲でも同じだが、協奏曲という名のついた作品は、独奏楽器の性能や奏法についての十分な知識がなければ書けるものではない。作曲家自身その楽器の名手であれば別だが、そうでない場合には、たとえばメンデルスゾーンやブラームスが「ヴァイオリン協奏曲」を作曲した時のように、一流の奏者から技術面の助言を仰ぎながら作曲の筆を進めていくのが普通である。
ところが、このチャイコフスキーは、ナマイキにも、ピアノ協奏曲を書くのに、ロシア・ピアノ界の最高峰と自他ともに許す自分に対して一言の相談もなかった。けしからん……こんな気持を抱いていたので、ニコライは、最初から虚心坦懐に耳を傾ける気にはなれなかったのかもしれない。
もう一つは、ニコライのような演奏家の観点からすると、実際に演奏するには障害になるような、従来の奏法を無視した箇所に、大きな抵抗を感じたのかもしれない、ということである。現在のこの曲の楽譜は、決してこの時のままではなく、それから15年後の1889年に、作曲者自身が全面的に手を加えて出版したものである。恐らく、その訂正箇所の大部分は、実際に演奏してみて不都合を生じたものであったろうと思われる。とすると、ニコライの「演奏不可能」という酷評も、一概に不当な言いがかりとばかりは言い切れないようだ。
それはともかく、ニコライのにべもない仕打ちに怒り心頭に発したチャイコフスキーは、予定を変えて、この「ピアノ協奏曲 第一番」を、その前年にロシアに演奏旅行に来て既に面識のあった、ドイツの大指揮者で同時に名ピアニストとして国際的な名声を得ていた、ハンス・フォン・ビューローに捧げてしまったのである。
ビューローは、この作品を受け取ると「あらゆる点で魅了されるこの対策を献呈されたことを、わたしは大変誇りに思っております」という礼状をチャイコフスキーに出したほどの喜びようで、近く予定しているアメリカ演奏旅行で、この曲を演奏することにしたいと申し出た。そして、その通り、1875年の秋、ボストンで初演したのを皮切りに、各地で演奏し、大成功を収めた。アメリカの聴衆は、ロシアの土の香りにあふれるこの曲に熱狂し、特に第二楽章をアンコールしたという。
ビューローは、早速、その大成功を電報で知らせてきたが、チャイコフスキーは、その返事を打つ金を調達するのに苦労しなければならなかった。当時の彼は、それほど経済的に困っていたのである。
ところで、この曲の最も大きな特色は、聞いた瞬間にロシアを感じさせることで、第一楽章の第二主題には、素朴なウクライナの民謡の旋律が使われているし、第二楽章のアンダンテの主題も、ロシア人でなければ絶対に書けないものだ。華やかな独奏ピアノの活躍、そして、チャイコフスキー的な親しみやすい旋律と強烈なロシア臭、それが大衆の心をとらえたのである。
この曲は、アメリカにおける初演と同じ年に、ペテルブルクとモスクワで演奏された。ペテルブルクの場合は、散々な不出来で、一向評判にもならなかったが、モスクワでは、チャイコフスキーの弟子のタネーエフがピアノ独奏を受け持ち、大成功を収めた。そして、この時の指揮を受け持ったのが、ほかならぬニコライ・ルビンシユタインであった。
彼も偉い男で、自分で上演してみて、曲の真価を悟ると、潔く自分の非を認め、てのひらをかえすようにしてこの曲の普及に力を入れはじめた。そして、自分でも全曲を暗記して曲を身につけ、他のどんなピアニストよりも完全に、かつ感動的にこの曲を弾くようになった。
彼が如何にこの曲の普及のために身を入れたかは、1878年のパリの万国博覧会の際、関係者たちの反対を押し切ってこの曲を演奏し、パリの聴衆に多大の感銘を与えたというエピソードからも明かであろう。この話を伝えたカーシュキンは、次のように述べている。
「この協奏曲の第一楽章が終わると、ホールに大変な騒ぎが起こった。ルビンシュタインは、それが聴衆の感動の表現だとは、すぐには分からなかった。彼はこれほどの成功を期待していなかったからである。この時のパリの聴衆は、ロシアの仲間たちよりはるかに耳が肥えていたのである」
こうして、この曲の評価を巡って、一時は友情に深いヒビが入ったニコライとチャイコフスキーの間は、ニコライの誠実な行為によって回復し、以前よりも強固なものとなったのだった。チャイコフスキーは、ニコライの演奏について「彼にあっては、卓越した技術が、常に芸術性および平衡感覚と手を携えて進んでいる」と讃えているが、そうしたニコライの人間としての優れた平衡感覚が上手く働き、友情の危機を見事に乗り越えることができたのである。
(了)